良介と恭仁子も間もなくやってきた。恭仁子ははしゃいでいて、まず家の中を探検した。そういうことが子どものようにできるのが、彼女だった。
「なんか、本当に仕事してたのね、ここで」
「当たり前だよ」
洸は吹き出して、さあ、と、みんなをローテーブルの前に集めた。あのベッドにもなりそうな大きなソファーに夫婦と幸が座り、洸は小さなスツールに腰掛けた。
「乾杯」
シャンパングラスとワイングラスはちゃんとこだわったガラスのものだった。これをもってイギリスに行くのだろうか、と、ふと幸は思った。
「さあ、どうぞ」
恭仁子がお皿を見渡して言った。
「わーすごい。洸はいつから料理なんてやるようになったの」
「40年の間だよ、僕だって成長する」
洸の言葉に、良介が笑って言った。
「違う誰かに食べさせるために、いろいろ覚えたんだよ。料理は愛情表現だから」
その言葉を軽く無視して、洸は取り皿を配り始めた。
恭仁子は何気なく聞いた。
「今日、沢さんは来ないの」
「うん」
「イギリスには一緒に行くんでしょ」
「いや。日本の仕事もあるから」
「そんなの、ネットでできるじゃん」
「そうもいかないこともあるんだよ」
「わかった。向こうで別の人と暮らすんだ」
「そうじゃないよ」
恭仁子と彼のそのやりとりを、幸は黙って聞いていた。「娘がいる」というさっき聞いた情報を自分が口にするのはやめようとためらいながら。
洸はそのやり取りに背中を押されたように立ち上がり、シリコンの鍋つかみを両手につけて、ゆっくりと鍋を運んできた。
「さあ、メインです」
使い込まれた青いタジン鍋の蓋をあげると、美味しい肉汁とスパイス、トマトの香りが広がった。
「うわー。美味しそう」
恭仁子はまた目を見開き、嬉しそうに目をつむって湯気を吸った。
洸はその表情を見てまた嬉しそうに説明する。
「ケフタのタジン。牛肉のミンチボールをトマトとスパイスで煮たものだよ」
「わあー」
3人は嬉しい声を合唱した。ミートボール、卵、がコトコトと食べてもらうのを待っている。
「寒い日のごちそうだね」
はふはふ、アツアツッと頬張って、良介が言った。
「寒い人生に鍛えられたんだよ」
洸が冗談ぽく言うと、恭仁子がその肩をポーン、と容赦無く叩いた。
「この人はもう!ずっとそんなこと言ってるんだから」
良介が、おい、と苦笑いして、今度は恭仁子を嗜めた。
イブイブの夜は和やかに過ぎた。人生にはごく稀に、非の打ちどころの無い夜というのがあるものだった。
それからあっという間に、大晦日がやって来た。
幸の店は、常連のセルジュとその仲間たちや、矢作夫妻、大城と凛花もやってきて、満杯になった。
「大晦日ですから、長命を祈って、今日は焼きそばです!」
「わー。なんか、いい匂いがする。ただのソースじゃない!」
凛花がふくふくしい笑顔で言った。なんだか少しふくよかになったようだと幸は思った。それに、さっきから水を飲んでいる。幸に同性のカンが働いた。
「凛花ちゃん、もしや?」
凛花は辺りを見渡し、両親が人と喋っているのを見ると、幸のエプロンを引っ張って、小声で言った。
「はい、3ヶ月です。まだ親には内緒なんです。新年に言おうと思って」
「それは良かったわねえ。おめでとう」
幸は自分まで孫ができるような気持ちになって、急にテンションが上がってきた。
凛花も嬉しさを隠しきれないように、焼きそばを頬張った。そして、おもむろに尋ねた。
「幸さん、これ何か入ってますよね?」
「モロッコ風焼きそばです」
「へえ」
幸は佐伯洸の顔をチラッと見ながら少し声を大きくして言った。
「スパイスは、ジンジャー、クミン、コリアンダー」
洸はふっと鼻で笑って、幸を見つめた。まるでそこに、横浜での暮らしの景色があったかのように。