《3》
内畠麻貴が篠原翔平と出会ったのは、2年前のことだ。白金のレストランでウェディング・パーティーがあり、麻貴はそのレストランから受注を受けて、花を担当した。本番までいることはないのだが、この日はお色直しのブーケやブートニアのチェンジなどもあり、珍しく最後まで立ち会っていた。翔平は新郎の友人で、ピアノの演奏を頼まれていたのだった。
彼は器用になんでも弾いた。結婚行進曲から友人代表が歌う西野カナの『Dear Bride』まで。
東大生にたくさん居そうな細面にメガネ。割と小柄で、グレーのスーツが似合わない。満員電車に乗っていたら、間違いなく見過ごしてしまうような男だった。ミュージシャンという派手さはまったくなかった。
しかしながら、彼の弾くピアノの音色を聴けば、素人の耳にも立派にプロとわかるものがあった。一音一音を大事に弾く美しさが、麻貴の心をつかんだ。
とりわけ、麻貴の心に一番響いたのは、翔平が新郎新婦に捧げた自作の曲だった。『とりあえず、話そう』と名付けられたその曲は、口下手だという新郎のエピソードと相まって、まるで二人の会話のようにメロディが重なってひとつになる、ドラマを見るようなバラードだった。
パーティーがお開きになってから、思わず、麻貴は翔平に声をかけていた。
「あの、素敵でした。すばらしかったです。またどこかで聴けますか」
「ああ、ホームページにスケジュールがあります。ライブハウスでやってたりするんで、よかったら聴きに来てくだい」
「はい!絶対行きます!」
それから麻貴のライブハウス通いが始まった。残業が多いので、だいたい、限られた曜日のセカンドステージから飛び込んだ。
翔平のピアノはジャンルに縛られないもので、組むミュージシャンによってジャズっぽいこともあれば、ポップスっぽいこともあった。ソロの日は、クラシックも、麻貴が最初に感動したオリジナル曲も弾いた。
「来てるよ、“2部から彼女”」
仲間が冷やかすと、翔平はわずかに耳のあたりを赤くした。麻貴は終演後のほんの少しの時間を見つけては、彼と二言三言、話をした。
そんなことが半年ほど続いたある夜、ライブハウスから出て余韻に浸りながら歩いていると、後ろから「麻貴さん」と、肩を叩かれた。
翔平だった。
「え、え、どうしたんですか」
「これから別のバンドの夜中リハなんです。駅まで一緒に歩きましょう」
ライブハウスから渋谷駅までは、7〜8分あった。宮益坂を下りながら、翔平は一人で喋った。こんなに喋る人なんだというくらい、喋った。普段、無口な男ほど、実は一人語りが得意なのかもしれない。
「僕、昼間は会社に行ってるんです。音楽とやっていることを説明して、17時までで帰らせてもらってるんですよ。でもね、プロのミュージシャンはそれを腰掛けと嫌う人もいます。でも、僕はね、僕のやり方で、精一杯楽しく音楽をやろうと思っているんです。音楽を楽しくやるために、僕は他に一つ仕事をもっていたいんです」
「はい…」
「大学は東大だったんですけど、早稲田のジャズ研にいて。周囲はいろいろです。プロになったヤツもいれば、完全に会社員になったヤツもいる。みんな面白いです。高田馬場にイントロという店があって、そこで時々、みんなでセッションしたりしています。それはホームページのスケジュールには挙げていないんだけど、よかったら遊びに来てください」
それから、二人は月に1度か2度、イントロに朝方までいて、そのままどちらかの家に泊まるようになった。
麻貴は、初めて彼が自分の話をしてくれたときのどきどきした夜道を今でも時々懐かしく思い出す。あの夜、夏の夕立が上がったあとの、甘い雨の匂いがした。