《3》
松原庵、という蕎麦屋は、静かで感じのよい一軒家で、靴を脱いで上がるようになっていた。
奥の座敷に通される。冷房の効きが心地よい。
「未知さん、ビールは飲みますか」
「はい」
ビールで、しょうゆ豆や鴨のローストなどをつまみ、かけそばをくるみだれで食べた。
「美味しいですね」
「失敗した。僕、ガムかみすぎて、口のなかがまだスースーしてます」
希望はそう言って笑った。未知はその笑顔を見ていて、ああ、この人は普通の人だな、と思った。
「普通の人」ってなんだろう。普通の感覚をもっている人。その感覚が、普通にわかるなと思える人。でもその「普通」というのは、未知がそう思うだけで、ひょっとしたらほかの人にとっては「普通」ではないのかもしれない。だけど、そこを共有できるってやっぱり、いいことなのかもしれない。まあ、だから、ドキドキはしないんだけど。…そんなことをぼんやり考えていると、希望がちょっと強い口調で言った。
「あの、海を見て、それから、僕の工房に来てくれませんか」
「こうぼう…」
「材木座に、小さな小屋を借りていて、そこで、靴を作ってるんです、僕。それであの、よかったら… あ、まあいいや」
「へえ… あ、はい」
希望は何を言いかけたのか、もごもとと口ごもった。未知も、なんだかよくわからない返事をした。「工房って広いのかしら」と、ふと二人きりになることを覚悟した。