大正から昭和にかけて活躍した作家、大佛次郎。横浜に生まれた彼は鎌倉に移り住み、海外からの客人や文豪をもてなすための茶亭を本宅以外に構えていました。
あるじを失った本宅は人手にわたり、寂れた茶亭も風前の灯火だったとき、文化の存続を願った志ある人々がその屋敷を購入、大規模修繕されました。
もともと建った時の堂々とした姿を取り戻した茶亭は、現在、茶会や、文化やアートのプレゼンテーションのためにと貸し出されています。
四季の花が折々に咲く穏やかな場所へ、伽羅の香りを届けに伺いました。
大正時代、『鞍馬天狗』で大人気となった作家・大佛次郎は、その後、大河ノンフィクションといえる『パリ燃ゆ』や、戦争にまつわるエッセイ、猫との暮らしなど、何冊もの著書を記しています。1897年、横浜に生まれた彼は、外務省勤務を経て作家になった人。当時の「モダンボーイ」を先駆けたような洒脱な写真が残っています。
1921年には『鞍馬天狗』のヒットもあり、鎌倉・雪の下に洋館のある本宅を構え、移り住みます。
その本宅の前にあったのが、豪華ではないが、洗練された技巧や珍しいつくりが施されたこの茶亭でした。
大佛は50代になってここを購入し、そこで海外からの客人や、文豪たちをもてなしたのだそうです。
1973年に大佛は鬼籍に入りました。本宅は2022年に解体。茶亭だけが取り残されていました。
その姿を惜しみ、鎌倉在住の一人の女性が立ち上がったのでした。その女性は一般社団法人大佛次郎文学保存会を設立。旧大佛次郎茶亭はその法人によって所有されることとなりました。
同保存会から再生コーディネートを委託されたのは、株式会社原窓の岡崎麗さん。
岡崎さんに、その経緯を伺うことができました。
最初にここを訪れたときは、あまりの老朽化に驚いたそうです。
「柱が根腐れして建物全体が沈下し、水平垂直も無茶苦茶な状態でした。時間も手間も抑えられる現代的な工法も検討しましたが、既存に倣い、伝統工法を選びました。全体をジャッキで持ち上げ、根継技と言って新しい柱を下に入れています。茅葺き屋根もすべて葺き替えに。工事は1年半ぐらいかかりました。一番大事にしたことは、この茶亭のもつ雰囲気を変えないことでした。おかげさまで、良い工務店にも巡り会えて、新旧が馴染む仕上がりになりました」
大佛次郎はすでにあったここを購入していた。ということは、一体いつ、誰がこの茶亭を建てたのか。
「茅葺き屋根と数寄屋建築は大きな特徴ですね。天井板、床板。一つ一つが今の時代では手に入らない木材や、こまかやな細工が施されたもの。竹の使い方なども今の職人ではできないような技が見られます。たとえ朽ちていても、安全上、問題がないならすべて残したいと思いました」
”猫間障子”と呼ばれる硝子を入れた障子や、鎌倉彫りのように表面が彫られた玄関の上り框(かまち)。客人に「また訪れたい」「こんなところにこんな工夫が」を思わせるようなしつらいが潜んでいます。
改装を進めるうち、その歴史を証明するものが床下から現れました。
「床下から、1919年築、という札が出てきたのです。以前より、予想されていたおおよその築年が明らかになった出来事でした。大きな改変もされずに生き残った建物だと思うと、本当に貴いと思います」。
お茶室は二つ。真ん中で西と東に分かれていて、東の茶室は前に梅。西の茶室は藤棚が見えます。
撮影に訪れた日は、梅、三又、椿、水仙などが咲いていました。
「もうすぐ桜ですね。桜の木が一番大きい。そして藤。この部屋がまるで極楽浄土のように見えるという人もいます」
梅雨の時期には紫陽花も咲くことでしょう。
「古民家、という言い方はあえてしたくないですね。生活をするための間取りになってはおらず、建てられた時からもてなしの場所と想定されていたようです。茶事という目的だけではなく、大佛次郎はここで友人知人と意見を交わし、近況を語り合い、昔話をしたりしたのでは。そういう時間の過ごし方を楽しんでいたのではないかと想像します」
確かに表札は、大佛と親交深かった作家の里見弴が贈ったものと言われていて、その名前も記されているのです。
「所有者は若い世代に大佛が遺した作品やその志を伝えたいと強く願っています。単に見物するのではなく、じっくりと時を過ごしてもらうことで、今の時代にこういった建築と庭園が残っていることを感じてもらいたい」
常時の開放は行っていませんが、催しの空間として貸し出しをしており、誰でも使うことが可能です。大佛と親和性のある文学や、アートの展示、プライベートの茶会など、問い合わせの内容はさまざまとのこと。陶芸家や染色家の展示、写真展などですでに貸し出したりもしています。
「春と秋には限定公開もしており、次回は4月3日の予定です」
茶室から庭を眺めていると、おそらく100年前も同じ景色だったのではないかと思えてきます。悠久の空間に似合うのは、伽羅の香りかと、焚いてみました。
煙が優しげな龍のように立ち上がると、ひたひたと心が満たされていくようでした。
香りと空間、そして時の流れまでもがぴたりとひとつになる瞬間が、そこにあったのです。
旧大佛次郎茶亭サイト
https://osaragijiro.jp
photo by Yumi Saito
http://www.yumisaitophoto.com/
Text by Aya Mori