人の心は、無意識にも意識的にも、今心地よいものを常に求めているのではないでしょうか。香りにもトレンドがあり、今の香りがあるようです。香りの学校「サンキエムソンス ジャポン」を主宰し、株式会社セントスケープ・デザインスタジオの代表でもある小泉祐貴子さんに、世界の香りのトレンドはどのように生まれ、今の香りのトレンドはどういう香りなのか、フレグラボの読者だけに教えていただきます。
目黒川の桜並木を見下ろせるスタイリッシュなビルに、セントスケープ・デザインスタジオのオフィスがあります。小泉祐貴子さんは、この香りのデザインスタジオの代表を務める一方で、香りの学校「サンキエムソンスジャポン」の校長でもある人。以前はスイスの香料会社に勤務し、世の中の流れを見ながら香りの新しいトレンドを考えるという仕事をされていたこともあります。
では、香りの新しいトレンドは、どんなふうに生まれてくるのでしょう。
「香りの世界のトレンドは、香水がつくっていくんです。香料の素材のトレンドだけでなく、その時代の価値観や雰囲気を先取りして香りで表現していくのですが、その最先端にあるのが香水です。私がスイスの香料会社、フィルメニッヒにいたとき、まさにそういう仕事をしていました。香料の素材だけではなく、その時代の価値観をどうやって香りで表現して、トレンドをつくるのか、という仕事ですね。香料会社には、香水のメゾンに向けて2年先、3年先を見て、香りのトレンドを予測して提案していく仕事があるのです」
しかし、小泉さんがその会社にいた頃と、現在の香水の世界は発信元が違ってきていると言います。
「以前は、ファッションブランドやコスメティックブランドが香水をつくるというのが主流でした。シャネル、クリスチャン・ディオール、ゲラン、エスティローダーといったブランドですね。でも今は、コンフィデンシャル・パフューマリーと呼ばれる、香水に特化したブランドが多くを占めるようになりました。ディプティック、ジョー・マローン、フランシス・クルジャンといったブランドたちです。10年前はニッチ・マーケットと言われていたこれらのブランドが、メインのマーケットに匹敵するサイズに成長してきている。ということは発信力も大きくなっているし、新しいトレンドもコンフィデンシャル・パフューマリーから生まれることが増えています」
コンフィデンシャル・パフューマリーの香水には、よりこだわりの強いものが多いようです。
「マスで流通しているような万人受けを狙うものではなく、よりこだわりが強いものを作りたいとか、新しい面白い香料素材があるからそれを届けたいとか。今までとは違う付加価値を香りそのものにつけるということにこだわっている香水が多いですね」
今までとは違う、新しいもの。それはどんなふうにつくられていくのでしょうか。
「合成香料を使用していることを積極的に訴求してみるとか、新しい合成香料をあえて個性的に取り入れていくことで、今の時代の空気を表現することが行われていますね。もちろん天然香料の人気も続いていて、特別な場所で限られた期間しか入手できない素材を敢えて使用する、素材の希少価値と、ブランド自体の価値をうまく結びつけたマーケットになってきているんです」
まさにダイバーシティ。ひとりひとりの存在意義を認める時代に、香りも多様化しているようなのです。
「そうですね。もともと、マスでたくさんのユーザーに向けてつくっていた香りと、個性を重んじるユーザーに向ける香りは違ってきます。分かりやすい変化でいうと、今までの香水の多くが、男性向け、女性向けと分けて販売されていたのが、コンフィデンシャルのマーケットはそれを敢えて言いません。とはいえ、今も女性向けで一番主流になる香りは、フローラル、お花の香りです。男性向けだとウッディとか、フゼアと呼ばれる男性的な清潔感や力強さを強調するような香りがメインになってきます。ところがコンフィデンシャルの場合、男性向け、女性向けと言わないブランディングをしますから、男性でもフローラルが好きな人は躊躇なく手を出せるし、女性でもウッディが好きな人は気兼ねなく手を出せる。その結果、コンフィデンシャルのマーケットで一番シェアをとっているのは、フローラルとウッディの両方、ということになるんです」
なるほど、女性でもウッディの香りが好きな人はたくさんいます。ジェンダーフリー、シェア・フレグランスというカテゴリーができたことで、その気持ちに素直に従えるようになったということでしょう。
「こうして女性にもウッディの香りを愉しみたい方がたくさんいらっしゃることが表に出てきたわけです。すると、次の時代、ウッディ系の香水の組み立てをどうつくるかというところは変わってきます。2~3年先の時代、人々が、どんな香りを心地よいと思うのだろうか。それを考えていく。例えば「大自然を思わせる森の香り」と言っても、朝の森に足を踏み入れたときの香りもあれば、夜の森の香りはしっとりとして苔の匂いもするかもしれない。どっちが次の時代の価値観を表しているかを考えるわけです。そうして、それを香りの組み立てに反映しながら開発を進めていきます」
グローバルで見たときに、日本人の好みというのもあります。
「多くの日本人が好きな香りは、フレッシュ、清潔感、明るさ、軽やかさといったキーワードで表現されます。そこには『大勢の人がいる場所で嫌われないように』という意識が少なからず働いているんです」
”香害”などという言葉も、まず他者を気にする日本人ならではのもの。しかし、コロナの時代を経て、少しずつ変化も見られると、小泉さんは言います。
「コロナを経て、香りを誰のためにつけるのかという感覚が変わってきているんです。他人の目を気にするよりもまず自分自身が快適でいたいために自分の好きな香りを選んでつけていく、という方がとても増えてきているようです。それがコンフィデンシャル・マーケットの躍進と重なっている。店舗の数も増え、店頭に並ぶ香りの幅もすごく広がっている。自分が好きな香りを自由に選べる時代になっていて、楽しいですよね」
そこで必要になってくるのは、自分にぴったりな香りを選ぶスキルなのでしょう。
香りを選ぶには、香りの種類や名前、どんな香りがするのかを知る必要があります。
「フローラル、シトラスというのはわかりやすいですが、マリンの香り、というと難易度が上がる。一度嗅いだことがないとわからないですよね。でもそういう種類がわかってくると、世の中にある多種多様な香りから、自分が好きなものを選べたり、友達に似合う香りを選んであげたり、そんなこともできるようになります。まずは香りをしっかりと感じて、特徴を共通言語で理解し、言葉で表現するスキルがあると世界が広がります」
小泉さんは「サンキエムソンス ジャポン」で、初心者のための講座や調香師を目指したい方のための講座も開催しています。ワインのソムリエさんと一緒に、ワインの香りを紐解く講座もあるそうです。
また、今春から企業向けに、パリで新しく作られた「香りでチームビルディング」をベースにした研修プログラムを日本で初めて導入する予定です。
「香りを活用した新しい企業研修やアクティビティとして様々な業種の方に体験いただきたいと思っています。
ひとつのチームで一つの香りを作るんですが、その材料となる香りをどう感じるかを話し合い、自分の言葉で表現する。香りに対しての好き嫌いというのは本能的なものですから、ストレートに言葉にしやすいんです。香りがその人の記憶につながることもあるでしょう。それをシェアすることで『その人の考えていること』を知る。また『その人の言葉遣いを知る』ことにもつながります。お互いに気づきを得られるコミュニケーションの訓練にもなるんです」。
香りを言葉で表すことの重要さ。それは一つのコミュニケーション・ツールを得ることでもあるのです。
では今のトレンドは、どんな言葉で表せるのでしょうか。
「世界的には、ウッディ、フローラル、オリエンタルが人気ですが、気持ちを豊かにしてくれるような贅沢なフローラルノート、落ち着きと安心感のあるアンバリーな甘さ、に注目しています。アンバリーな香りというのは、深みのある柔らかい甘さを持つ香りです。バニラやベンゾインの香りにほんのりスモーキーなニュアンスが重なる、落ち着きがあって包み込まれるような安心感のあるアンバリーノートを使った香りはここ1~2年目立って増えてますね」
コロナの頃とは明らかに変わってきているそうです。
「大自然を感じるような癒し、香りでいうとグリーンやウッディが好まれていました。今は何かに包まれるような癒しが望まれているのかもしれませんね」
一方で、スパイスの、キリッとした香りも好まれてきているそう。
「ウッディやフローラルのアクセントにスパイスをキリっと使うというような。パワフルなレザーノートは苦手という女性も多いですが、最近はスエードのように滑らかでエレガントなレザーノートなど様々なニュアンスあるので、それもかぎ分けられるようになると面白いですよ」
例えば「バラの香りが好き」と感じたところで、そのバラにも数えきれないほど種類があるのが、香りの世界。
また世の中のトレンドとは関係なく「私のトレンド」をもつ人もいるでしょう。
深く、世情とも個人の生き方とも密着する香りの世界。この春から改めて学んでみるのもいいのではないでしょうか。
photo by Yumi Saito
http://www.yumisaitophoto.com/
Text by Aya Mori