私と弟は、火曜と木曜の夜、19時から中堂先生のところへ行くことになった。
あのなんとも言えない香りの応接部屋から奥に入った、ダイニングキッチンの食卓の上に、ドリルや参考書を広げるのだった。
時々、あのイヌが私たちのテーブルの足元をのそのそと出たり入ったりした。その度に私は体を斜めにしてちょっと足を退けた。
中堂先生の説明は確かにわかりやすかった。
受験の算数で、当時もっとも厄介だったのはつるかめ算だった。要するに、方程式のXとYがあればわかりやすいものを、□や△で表現したり、鶴の足は2本、亀の足は4本といったことが問題の符号になるのである。
最初はお手上げだった私も、中堂先生の説明で、わかるようになっていった。
昼間は小学校で朝から声を枯らして5時間なり6時間なり授業をし、帰宅してまで教えてくださるという労力には本当に感謝しかなかった。
その1時間半ほどの時間の熱心な指導を見ていても、この人はどれだけ日頃一生懸命教育をしているかが想像できた。
ある時、こんなことを聞かれた。
「あやちゃんは、将来、何をしたい? これからの世の中は、女も手に職をつけんといかん時代やで」
「うーん」
正直、小6の私には全く将来のビジョンなどなかった。まずは中学に入ること。それしかなかった。得意な国語を生かせる仕事をしたいとは思っていたが、作家になどなれるはずもないと思っていた。父の集めている夥しい文学全集を読めば読むほど、こんなものを書ける訳が無いと思ったからだ。
「わかりません」
そういうと、なぜか中堂先生は熱く語り始めた。延々とした話を要約するとこうだった。
「どんな世の中になっても仕事がある資格は、薬剤師と教職。どっちかは取っておきなさい」
なるほど、そうしよう、と思った。薬剤師は興味がないけれど、教師はちょっとやってみたかった。でも小学校は大変そうだから、中学か高校の国語がいいなあ、などと。
それから間を空けずして、父親が私に同じようなことを聞いた。
「将来、何になりたいんや」
「教職か薬剤師は取っとこうかなと思って」
私は中堂先生に教えられたまま答えた。すると、父は烈火の如く怒った。
「わしはそんなことのためにおまえに金かけてるわけじゃない!こんなに本を読ませて、習い事させて、中学からいい経験をするために私立へ行かせようとして… アホなこと言いやがって」
「…」
「今からそんな夢のないこというてどうする…」
「でも中堂先生が言うてはった」
その言葉は父の烈火の怒りに油を注いだ。
「だからわしは、偏った頭の教師のところへ勉強に行くのは反対なんや」
なんでも父の弟…、私の叔父が高校時代に勉強をしに行っていたところの先生のせいで、叔父は学生運動をしたのだという話にまで続いていった。
「頼むから、そんな夢のないことは言わんといてくれ」
父は最後には私に懇願した。
彼が私にやらせたがっているのは文章の仕事なのだ。
祖父も父も果たせなかった、本を書くという夢。それを背負えというのだ。
私はその時、諦めた。作家にはなれなくても、記者とか編集者とか、何かできることがあるかもしれない。それは夢ではなく、諦め、に似ていた。
望洋と将来へ続く諦めだった。
そしてその後、中堂先生には「教職を取ります」と嘘をついた。