小仲正克社長対談
ランドスケーププロダクツの代表であり、現在はコンランショップ・ジャパンの代表でもある中原慎一郎さん。日本香堂のブランド『Yohaku』のプロデュースにも関わっています。景色をつくるという類まれな力はどのように培われてきたのか。vol.1は、中原さんのこれまでの仕事とその根源にあるものを小仲正克社長が問います。
小仲
最初に、今までのお仕事について伺いたいんですが、鹿児島で家具の経験を積まれ、東京でランドスケーププロダクツを立ち上げられて、カフェやレストラン、『FOR STOCKIST』のようなスタートアップを主体とした展示会を開催されたり。時代に先駆けて、色々な活動をされてきていますね。そして現在はコンランショップ・ジャパンの代表も兼任されています。
地域の民藝やクラフトの再認識、そこで人を繋げることも実践しておられる。中原さんが関心をもっていらっしゃるテーマや出来事が、僕は個人的にすごく興味があるんです。ものづくりのプロセスも大切だったりすると思うので、よろしくお願いします。
中原 小仲さんと初めてお会いしたのは2010年頃ですね。
小仲
『Giving Tree』という、中原さんからご提案いただいたブランドのプロジェクトでした。僕としても結構気持ちが入ってたブランドだったんですけれども、その後、東日本大震災 があって、その企画が流れてしまたんですよね。で、その後『Yohaku』というブランドや、『香十香皿のデザインコンテスト』などご一緒させてもらっています。
いつも新鮮な切り口を与えていただいてて、ご縁に感謝しております。
もともと、お生まれは鹿児島ですね。
中原
はい。2000年に鹿児島で『ランドスケーププロダクツ』という個人の会社を設立しました。すでに1997年頃から家具のブランドを始めていたんです。それが、最初で。
学生時代からアルバイトで、地元のイギリスのアンティーク家具屋で働いていました。
当時はバブルの終わりぐらいだったのですが、その家具屋のオーナーがカリスマ性のある人で、日本語の名前を禁止されていて、僕らも英語の名前で呼ばれていました。
その店が僕と家具との出会いです。19歳か20歳ぐらいの時に、買い付けに同行してイギリスに連れていってもらったんですよ。
ロンドンに着いた翌日の集合場所が、できたばかりの『コンラン ショップ』だった。
僕にとっての『コンラン ショップ』はチェルシーのミュランビルの側のあそこです。それが僕にとっては、ものすごくセンセーショナルな出会いでした。
『コンラン ショップ』に家具屋、インテリアショップとして入ったつもりが、入り口に、オイスターバーがあったり、花屋があったり、レストランがあったりして、なんでもやっていいんだと。それは衝撃でした。
小仲 なんだか『コンランショップ』とは運命的な出会いですね。バイトの学生を海外に連れていくというのは良い会社ですね。じゃ、学生時代はそのバイト先との関わりが深かったのですか。
中原
はい。その店はアンティークの家具のメンテナンスしたり、その店は喫茶店もやっていて、ケーキ作ったり、コーヒー立てたりしながら、家具を売るという独自のスタイルで。それが、その後、自分にも影響してくるんですけど、そういう学生生活を送った後に、東京へ出てきて、今度はいわゆるモダンファニチャーとの出会いがありました。
ミッドセンチュリーと言われる1940年代から70年代ぐらいまでの家具を扱う店に就職をしました。
小仲 それもまたアンティーク家具ですね。
中原
はい。アメリカにしょっちゅう買い付けに行きました。その頃は経済的にはバブルは終わっていましたが、その分野のバブルだったんです。なぜかミッドセンチュリーの家具が、ブルータスで1冊丸ごと特集されたのがきっかけで、空前の再評価ブームが起こりました。おそらく、日本からだったのではないかな。そこでどっぷり働きました。
その会社に、6、7年いたと思うんですが、だんだん、今度は自分で家具を作りたくなりまして。工場で家具をつくるパートナーがいたので、僕がデザインして鹿児島でつくって売るというスタイルで、ビジネスを始めました。
小仲 そうすると、ランドスケーププロダクツも、やはり鹿児島との縁からですか。
中原
そうですね、作る場所がちゃんとあったというのは大きかったですね。
だから、世の中には家具をデザインだけする人はいましたが、生産、流通まで全部自分たちでやるということは珍しかった。
小仲 そうすると、ランドスケーププロダクツの原点は今も店もございますが、家具の販売だったのですね。
中原
はい、ただアメリカには行ってましたね。インスピレーションのある雑貨や家具を仕入れに行くということを含め、アメリカに行くことは自分のなかですごく大切なことだったんで。
それが、2000年。その頃の店は神宮前の3丁目あたりでした。タイミングもよく、少しずつ名前が知られていって、同時にインテリアの設計、店舗やオフィスの内装、什器の製作など、頼まれたら我流でやるようになったんです。
小仲 まさに”ランドスケープ”をつくられるようになっていく。
中原
そうですね。急に空間全体を任されることになっていきました。会社の名前がランドスケープロダクツだったんで「風景をつくる」なんですが。
景色を見るって行為は人間の行為なんです。例えば、そこに山があっても山は見られるためにそこにあるわけじゃない。「人間が見る」という行為によって景色というものが作られるんです。
だから自分たちが作ったものが一つあるだけでも、その空間の景色が変わる、雰囲気が変わるということを、大切にしていました。 そういうことをテーマに作った会社だったんです。
小仲 インテリアだったり、家だったりという空間そのものに仕事が増えていったと。
中原 景色に関わるものは全て、何か自分たちが関われることはやろうということですね。