86年に、映像作家として活躍していた知永子さんと結婚。二人は日本での華々しい成功をすべてふり切って、ロンドンへと移り住んだのでした。
「知永子は脚本家であり、映像プロダクションの代表でもあって、偶然、ヴァイオリンを題材にした映像を撮っていたのです。僕はもともと幼少期から習っていたヴァイオリンで音楽をスタートさせたこともあってYONGENというユニットを作ることになりました。弦楽器の4本目の弦は一番太く、あたたかい音がして後の3本を支える。そんな存在であろうという意味でした。僕がメロディと歌と音楽。知永子は作詞とアートを担当して。五感で感じてもらえるようなものを作りたかったのです」
亀井さんのアートに対する考え方もそこに原点があります。
「音楽も含めて、アートはなんのためにあるのか。誰かの考えを伝えるためにあるものではないと思うのです。人の五感、感性を自由にしてあげるものなのではないでしょうか。とにかく、今は感性に膜を貼られているような時代だと思う。人を愛することにしても、政治にしても。いろんなことを感じたり考えたりすることが素直にできなくなってしまっている人が多いように思います。音楽もアートも、もっと解き放たれた、嘘がないものですよ」
目の前にあるアートや音楽を率直に受け止めることを怖がる人が多いと、亀井さんは感じています。
「みんなそれに触れる前の情報を欲しがりすぎる。『この人はどういう人なのか』とか『今まで何をやってきたのか』とか。自分の感性に自信がないのかな。前もって得る情報より、その場でどう感じるかが一番大事なのです」
表現する側にも、恐れがあるのではと亀井さんは推察します。
「批評を気にしすぎる。言葉にできない表現があるから、映像芸術も音楽もある。音楽で到達できるものは、言葉では到達できない。音楽でしか表現できないものがきっとあると思うのです」。
五感を呼び覚ますという点で、もうひとつ、亀井さんは「匂い」の力があると言います。
「前から思っていたのですが、音もヴィジュアルもかなわない感性が『匂い』です。一番嘘がつけない。匂いは1秒ですべてが決まるし、好きか嫌いか、そこではっきり分かれますね。それが過去の記憶と結びついていると、全部そこへもって行かれてしまう。ひょっとしたら、全ての上に君臨する感性かもしれないですね」。
亀井さんは、今年の2月に亡くなったばかりの奥様・知永子さんの思い出の香りを、今は愛用しているそうです。
「僕はいわゆる香水というものをずっと使わずに来たのですが、今はつけています。サンタマリアノヴェッラという、フィレンツェのもともと薬局だったお店のほのかな花の香りのコロンです。3〜4ヶ月前にそれが家のなかにいくつか残っているのに気づきました。あまり強い香りでなく、残り香が気にならないのもいいですね。気持ちが落ち着くのです」
香りは亡き人の気配をもつくってくれるのでしょう。30年間、寝食を共にし、出張で離れる以外は、ずっと一緒に過ごして、ものづくりをしてきたご夫妻。サンタマリアノヴェッラも、結婚してすぐの頃に、お二人で訪ねたことがあったそうです。
「暮らすだけならともかく、一緒にものをつくるのはすごく疲れることでもあります。でもまた、それを一緒にいることで乗り越えてきたのです」。
10月13日、以前、YONGENでもライブをした代官山ヒルサイドプラザで、亀井さんは「The singer」と題したコンサートを催します。
「僕は作曲をし、編曲もし、プロデューサーもし、人を育てるというのもおこがましいけれど、そういう立場で仕事をしてきました。でも今回はシンガーです」
亀井さんの歌を支えるのは、朝岡さやかさんのピアノ、そして弦のカルテット。YONGENのオリジナル曲のほか、スタンダードジャズも歌われます。
しかし、残念ながら、そこには亀井さんにとって4弦目のような存在だった、知永子さんの姿はありません。
「これからいったいどう生きようかというときに、自分に音楽を通して何が出来るのかを改めて考えてみました。すると”歌うこと”がいつもすぐそばにいてくれたことに気づきました。”歌うこと”でどれほど自分自身が解放されてきたか、どれほど勇気づけられてきたかに気づきました。少し遅いソロ・デビューではありますが、これからは作曲とともに、”歌うこと”をひとつの軸にしていきたいと思っています」。
まっすぐな彼の情熱は、まだまだ音楽とともに生き続けています。
愛を知る人のそのあたたかい歌声は、きっと聴く人の心の膜を取り去るでしょう。
コンサート情報
取材・文 森 綾
フレグラボ編集長。雑誌、新聞、webと媒体を問わず、またインタビュー歴2200人以上、コラム、エッセイ、小説とジャンルを問わずに書く。
近刊は短編小説集『白トリュフとウォッカのスパゲッティ』(スター出版)。小説には映画『音楽人』の原作となった『音楽人1988』など。
エッセイは『一流の女が私だけに教えてくれたこと』(マガジンハウス)など多数。
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