能の物語には「香」がよく登場します。
「梅の香りがするから近くへ寄ってみたら、何かがあった、とか。能は見えないことを演じるものですから見えざる香りも感じさせないといけません。桜や梅が香るような気持ちになってもらわないといけないのです」
有名な演目『葵上』は、六条御息所が生霊となって光源氏の正妻である葵上に取り憑く、あの『源氏物語』のなかのストーリーがモチーフになっていますが、芥子の匂いが取り憑いた生霊の証と表現されます。
「昨年、私もやらせていただきました。舞台の上ではうっすらその匂いを感じるような気がしました」
豪華な装束よりも立っているだけでそのここにはないはずの香りが広がっていく。そんなことを味わえるのは、能だけのものでしょう。
ユネスコの世界無形文化遺産にも指定されている能。海外での能の公演も少なくありません。
「ヴァチカンの教会のクーポラと同じ柄が『翁』に使用される江戸時代の装束に描かれていたりして、つながっているものを感じます。『復活のキリスト』という新作能があり、二年前にそれと『翁』をヴァチカンのカンチェレリア宮殿で公演し、喜んでいただけました」
もはや古語でしかもゆったりとうたわれる言葉は、現代の日本人にもすぐには理解できませんから、国境を越えて、味わい方は変わらないものなのかもしれません。
「理解しなくちゃいけないとか、再現しなくちゃいけないとか、直ぐに答えを見つけるものではなく、力を抜いて、心のアンテナを傾ける。今宵見たものは今宵限り。見方にも答えはありません。それぞれに見えた景色が正解なのです。なにもないところから始まり、なにもないところで終わる。草花も人の一生も同じ。能もそういうものなのです」
なにもなくなった舞台に、どんな余韻が漂っているのか。能の世界がくれるそぎ落とされた「非日常」の空間は、どこまでも広く深く。答えを求めすぎる私たちを、やさしく招き入れてくれるのです。
4/27 企画公演「正尊」 国立能楽堂 13時
5/11 定期能宝生流「朝長」 セルリアンタワー能楽堂 13時、16時30分
6/5 定例公演「藤栄」 国立能楽堂 13時
6/25~ UAE,イタリア公演
9/27 特別公演夜能「邯鄲 傘之出」 宝生能楽堂 18時30分
取材・文 森 綾
フレグラボ編集長。雑誌、新聞、webと媒体を問わず、またインタビュー歴2200人以上、コラム、エッセイ、小説とジャンルを問わずに書く。
近刊は短編小説集『白トリュフとウォッカのスパゲッティ』(スター出版)。小説には映画『音楽人』の原作となった『音楽人1988』など。
エッセイは『一流の女が私だけに教えてくれたこと』(マガジンハウス)など多数。
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撮影 山口宏之