「実は3年ほど前に妻を亡くしてね。…3月で3年か」
「それはお寂しかったですね」
幸は心底そう言った。生真面目そうな男だから、脳裏に仲睦まじかっただろう夫婦を描いた。
さっきホームレスと疑ったことはどこかに行ってしまった。
この男とその妻は、2人で山登りをしたりしたんだろうか。春の山道で、山菜を取ったりしたんだろうか。そんな想像を膨らませた。
客は天井あたりを見て、腕組みをして言った。
「香港へ4日ほど出張へ行っている間にね、帰宅したら亡くなっていて。まだあったかかったんで、すぐ救急車を呼んだんですが、ダメだった」
「脳出血か何かですか」
「くも膜下」
「…」
言葉をなくして、幸はグラスを置いた。
客もしばらく黙っていたが、ぽつりと言った。
「なんで最期にそばにいてやれなかったのか」
居たとしても、それは致し方ない死だったのかもしれない。そう言いかけて、幸は黙った。それは慰めにはならない言葉だと考えたのだった。
客は言った。
「なんだか、信じられなくて。そんな逝きかたさ。なんだかどっかでまだ生きているような気がして。土曜日になると、彼女のいない部屋ががらんとしていて、パニックになりそうになって。それで、いろんな店へ行こうと決めて」
なぜ違う店なんだろう。あえて顔馴染みを作りたくないのだろうか。それとも、全く知らない場所に行ったら、彼女がいるような気がするのだろうか。
幸は思い出した。40を過ぎて大阪を去る前に、四国巡礼に行ったことを。
その時も、同じツアーに、妻を亡くしたり、子どもを亡くしたりした人がいた。
「あの、失礼だったらごめんなさい。…巡礼、みたいな感じですか」
「巡礼…」
「あ、あのね、私、四国八十八カ所の巡礼、ちょっとだけ行ったことがあるんです。1週間ほど、バスで回るんですけどね」
「へえ」
「『同行二人』と書いてある杖をもってね」
「ふたり?」
「ええ、ひとりで回っていても、弘法大師様がいつも一緒にいてくださるよ、っていう意味なんですって」
「…」
「だからね、きっと、お客さんも亡くなった奥様とふたりで歩いていらっしゃるんじゃないかと」
「ミナコと…」
男は目を閉じて2杯目のビールをグッと飲み干した。