幸は男に訊ねた。
「おなか、空いてませんか」
男は救われたように答えた。
「ああ、スパゲッティかなんか、あるかな」
「ふきのとう、大丈夫ですか」
「ああ、いいね」
男は唇の端っこを少しあげた。それでも、ものすごく久しぶりに笑ったつもりだった。
幸はさっき仕入れてきたふきのとうを取り出し、パックを開けた。
黒くなったところは、つまむ。
3分ほど茹で、水気を絞り、ザクザク切る。なんとも言えない青い香りである。一つだけ、実をそのまま残した。
スパゲッティは80g。8分茹でを、7分30秒で上げよう。
脂の少ない鳥むねのミンチと生姜のみじん切りを炒め、そこへふきのとうと、茹で上がったパスタ、パルジャーノレッジャーノを多めにおろしておいたものとを合わせる。
チーズがふきのとうの香りを丸く包み込む。生姜のスパイシーさがそれを引き立てる。
EXオリーブオイルを入れて少しとろりとさせ、お皿へと高く盛りつけ、さらにグレーターでチーズを削った。
最後に残しておいたふきのとうの実をトッピングする。
「ふきのとうの雪解けスパゲッティです」
「雪解けかあ」
男はフォークにスパゲッティを巻きつけ、トントン、とチーズをつけた。
「うん、こりゃ旨い」
ふきのとうの香りを生姜の効いた鶏ひき肉とチーズが良い人のように仲介する。出過ぎず、引きすぎず。青い香りの後、ほのかに苦い。それは若い日を思い出すような、苦さだった。
ほろ苦いという香り。
男は、若い日、亡くなった妻と出会った春を思い出した。
大学時代の、たまたま女子大の友達とで合同で行った山登りだった。
自分たちにとってはピクニックのような山だった。3人で来た彼女たちははあはあ言っていた。まるで自分たちが嵌めたような気もしたが、彼女たちは頂上でとびきりの笑顔を見せて喜んだ。
そのなかで、自分はミナコの笑顔に引き込まれた。その目が真っ直ぐに自分に注がれていることをすぐに感じ取ったから。2人は程なく恋人同士になった。そして結婚して、ずっとずっと、生きるという山を登ってきたのだった。そんなに早く、彼女が天に召される前まで。…
何かそれを言葉にしようとしたが、言葉にしたら涙が出そうだった。
だから、ハフハフと、大袈裟に美味しく食べているぞ、という仕草をした。
挙句、最後に残したふきのとうの実で皿を拭うようにして、きれいに平げた。
「ああ、旨かった。ごちそうさま」
「お客さん、お髭に雪が」
「ああ」
白ワインのグラスも飲み干して、赤くなった顔が、優しい赤鬼のようになった。
悲しみ方にはいろいろある。大事な人を失って、三日三晩泣いて、意外に早く立ち直る人もいるだろう。でもこの人はきっと、じわじわと、ゆっくりと、一緒にいた時間と同じくらい、静かに悲しみ続けているのだ。
男は言った。
「ふきのとう、良かったよ。そうだな、そろそろ山にでも行ってみるか。もういいかな」
「きっと山が待っていますよ。お客さんは山男ですもんね」
「なんでわかるの」
「その格好で山が嫌いだったら逆にびっくりします」
「そっか」
2人は笑った。男も今度は本当に笑った。
男にとって、3年ぶりの、声の出る笑いだった。
筆者 森 綾
フレグラボ編集長。雑誌、新聞、webと媒体を問わず、またインタビュー歴2200人以上、コラム、エッセイ、小説とジャンルを問わずに書く。
近刊は短編小説集『白トリュフとウォッカのスパゲッティ』(スター出版)。小説には映画『音楽人』の原作となった『音楽人1988』など。
エッセイは『一流の女が私だけに教えてくれたこと』(マガジンハウス)など多数。
http://moriaya.jp
https://www.facebook.com/aya.mori1
イラスト サイトウマサミツ
イラストレーター。雑誌、パッケージ、室内装飾画、ホスピタルアートなど、手描きでシンプルな線で描く絵は、街の至る所を彩っている。
手描き制作は愛知医大新病院、帝京医大溝の口病院の小児科フロアなど。
絵本に『はだしになっちゃえ』『くりくりくりひろい』(福音館書店)など多数。
書籍イラストレーションに『ラジオ深夜便〜珠玉のことば〜100のメッセージ』など。
https://www.instagram.com/masamitsusaitou/?hl=ja