20代だった頃のミツコは煽るようにシャンパンを飲んでいた。幸はミツコがグラスを傾けるたびに巻き髪が肩の下へ流れる。その音のない美しさを憶えていた。
飲めなくなった、という言葉に、なんとも言えない寂しさが、グラスの泡のように吹き上がってきた。
「どうしたんですか、ミツコさん」
「私、5年前に胃を切ったんよ。ほんで、来月、また違うとこ、切るねん」
「……」
ガン、という言葉が浮かんだが、幸は口に出せなかった。それに、今は治る病気だと思い直した。
しかし、ミツコの細くなりすぎた首、手首、足首が、何かよからぬことを感じさせた。
「大丈夫ですか。手術は東京の病院ですか」
「うん。それもあってな、大阪からもう熱海のマンションへ引っ越したんよ。温泉出るお風呂やしな。幸ちゃん、遊びに来てえや」
「大パパさんと一緒なんですか」
ミツコはかぶりを振った。
「生きてたら… 88かな。亡くなった時にな、ようけマンション持ってはったから、奥さんが、私にそこをくれはったん。ちょうど10年前かな」
「立派な奥さんですね」
「呼び出されてな。何言われるんかなと思ったら『主人の面倒を見てくれて、ありがとうございました』って。ようできた人や。やっぱり、偉い人の奥さんて、ようできてるもんやな」
「そうですね。大きな会社の社長さんの奥さんは、お店にも何か送ってきてくれはったり、ありましたね」
「それはそうとして」
ミツコは、きっ、と幸を見つめた。
「あんたは、家の一つも誰かにもろたんか」
「いえ……」
「シャレ言うてるんとちゃうでえ。まさかなんにももらわんと……」
「……」
ミツコは大きくため息をつくと、シャンパンをひと口のんで、苦そうな顔をした。
「握力がないなあ」
幸せを形にする握力、とでも言うのだろうか。幸は確かにそういうものに欠けていると自分でも知っていた。形より、漂うものを選んでしまうところがあった。
でも、そこそこに齢を重ね、言い返すこともできた。
「握力ありますよ。ミツコさん、助けたやないですか」
「せやった」
ミツコは、今度は泣き笑いのような顔をした。
少し遠い昔の同じ風景を、二人は浮かべた。
ゆっくりと、ミツコは2杯目を催促するようにグラスを傾けた。
「私な。それをな、一回もちゃんとあんたに礼を言うたこと、なかったやん。ほんで、今日、この店のことを大阪のコに聞いてな、来たんよ」
「ミツコさん…… お礼やなんてもう、昔のことやし」
「ううん。ありがとうな。ほんまに、あの時はありがとう」
焦茶色のアイラインで囲まれたミツコの瞳にふるふると小さな湖ができた。
幸は一緒に泣いてしまいそうになって、話を変えた。
「ミツコさん、なんか、食べますか。お酒だけやったら、胃に悪いです」
「… せやな」
幸はくるりと背を向けて、冷蔵庫から、発酵したキャベツを取り出した。いい感じに塩気と甘みのある、軽いお漬物のようになっている。
それを刻んであったロースハムと合わせ、小さい方の春巻きの皮で折り畳んで巻いた。
小麦粉を溶いたのりで端っこを止めると、白い小さな箱のようなものができる。
米油を熱して、それらを一つ、二つと放り込む。
ちゅるちゅると音を立てて、小さな箱は狐色に揚がっていった。
一つずつ取り出して縦にバットに立てかけて油を切り、一つは真ん中を斜めに切って、盛り付ける。
「これ、なに」
「発酵キャベツとハムだけの春巻きです。キャベツって、胃にいいらしいんです。そのままでもいいですけど、レモン搾ったり、このカレー塩つけても美味しいですよ」
「ふうん」
切った方を一つつまみ、チョンチョン、とカレー塩をつけて、ミツコはそれを口にした。サクサクと皮の音がし、さっき湖だった瞳が丸く輝いた。
「美味しい。なんか、材料がビンボー臭いかなと思ったけど、美味しい。甘味もあるし、なんやろう。おやつみたいな」
「大阪ぽくないですか。お菓子みたいな料理、って。たこ焼きも、イカ焼きも、豚まんも、おやつみたいなもんです」
「せやな。私らは若い頃、そんなおやつみたいな、小腹満たしみたいなもんで生きてたなあ」
そうだ。私たちは、そんな日々の小腹満たしみたいな幸せをなんとか繋げて生きてきたのかもしれない。
せやな、セやろ、と、やたらと「同意する」言葉の増えたミツコを、幸は寂しいような、愛しいような気持ちで見つめていた。