飲めない、と言いながら、ミツコのグラスはまた空いた。幸は心配になりながら、3杯目を注いだ。まだ1時間ほどしか経っていない。
「ミツコさん、3杯目。これで今日はやめときましょね。今度、ミツコさんとこ、遊びに行きますから」
「ほんまに…… ほんまに来てくれる」
「はい」
この人には息子がいたはずだ。岡山に母親も。でも母親はもう亡くなったのだろう。ミツコに置いてけぼりにされていた息子は別の人生を生きているに違いない。
幸は自分もひと口シャンパンを口にして、そんな記憶を飲み干した。そして、聞きたかったことを聞いてみようと思った。
「ミツコさん、香水つけるの、やめちゃったんですか」
「あれなあ」
ミツコは慣れ親しんだ友達を語るように、その香水を語った。
「ベルガモットで爽やかに近づいて、バラ、ジャスミンの強さをしっかり見せて、最後はウッディとベチパー、パチョリで刺激を残して。勢いのある香りやんな。もう、その勢いには今の私はついて行かれへんから」
「… 」
「最初に大きい病院に検査に行った時、顔をしかめた看護師さんがおってな。そやな。そんなところに通う女にはもうちがうなあと、思ったんよ。ほんでやめたわ」
「もう何にもつけてないんですか」
幸が諦めたように言うと、ミツコはおもむろに立ち上がって、両方の細い手首の裏側を差し出した。
「軽いボディミスト、つけてるねん。鼻近づけたら香るくらいな」
青く血管の浮き出た白い手首に、幸は両手を伸ばし、自分の鼻を近づけた。
かすかに、本当にかすかに、レモンとムスクが混じり合うような残り香を感じた。
その瞬間、抑えきれないものがこみ上げてきた。幸は、その手首を、あの時のようにしっかり握った。
「まだまだ元気でいてください。ミツコさんは、ずっと私の前を歩いててくださいね」
「幸ちゃん… 」
ミツコは3杯目のシャンパンはゆっくり飲んだ。
二人は差し障りのなさそうな客達の思い出話や大阪の話に明け暮れた。
「ほな、帰るわな」
幸がトレンチコートを羽織らせるとき、ほのかにまた彼女は香った。足元を確かめながら、そっと表へ送り出す。
もう人気もまばらなゆるい坂道を降り切るまで、幸はその背中を見送った。
紺色に染まっていく街に、トレンチコートのミツコは、振り向くことをしなかった。
筆者 森 綾
フレグラボ編集長。雑誌、新聞、webと媒体を問わず、またインタビュー歴2200人以上、コラム、エッセイ、小説とジャンルを問わずに書く。
近刊は短編小説集『白トリュフとウォッカのスパゲッティ』(スター出版)。小説には映画『音楽人』の原作となった『音楽人1988』など。
エッセイは『一流の女が私だけに教えてくれたこと』(マガジンハウス)など多数。
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https://www.facebook.com/aya.mori1
イラスト サイトウマサミツ
イラストレーター。雑誌、パッケージ、室内装飾画、ホスピタルアートなど、手描きでシンプルな線で描く絵は、街の至る所を彩っている。
手描き制作は愛知医大新病院、帝京医大溝の口病院の小児科フロアなど。
絵本に『はだしになっちゃえ』『くりくりくりひろい』(福音館書店)など多数。
書籍イラストレーションに『ラジオ深夜便〜珠玉のことば〜100のメッセージ』など。
https://www.instagram.com/masamitsusaitou/?hl=ja