男は話を変えて、しみじみ言った。
「よかったなあ、阪神。岡田、頑張ったもんなあ。あいつ、頭いいよ。選手にプレッシャーかけんように優勝のことアレって言うたり」
「そうですねえ。賢いんやろうねえ」
幸はそう言いながら、この男も岡田監督にどこか似ているような気がした。
「明日の阪神百貨店、えらいことなるで。懐かしいなあ。地下のほれ、デラバン」
「イカ焼きですか」
「うん。デラバン。あれ旨いやん」
「作りましょうか」
「え。できんの。あの機械、ないやんか」
「やってみます」
幸は思わず言ってしまった。あれは確か、イカと小麦粉と卵とソースさえあればできるはずだ。
問題は、男の言うように、あの種にガーッと圧力をかけてペラペラに潰す機械がないことだ。鉄の塊と塊で押さえつける機械。足に落としたりしたら、きっと骨が砕けるだろう、あの重たそうな機械。
幸は小麦粉をボールに入れ、水と塩をひとつまみ入れて、どろっとさせた。そこへ切ったイカを入れる。この上に卵を割り、本来なら圧をかけるわけだが。
棚を見回し、一番重たそうなストウブの鍋をよいしょと取り出した。そこにさらに水を入れた。
鍋の底をアルミホイルで覆う。
フライパンに油を敷いて、イカ種をお玉で入れ、卵を二つ割った。まずは底を焼いて、ひっくり返す。そしてその上に、水を張った鍋を置いた。
ブジュジューッ。
大きな音がした。水分が爆発的に消えていく音。鍋の圧でタネはかなりペラペラになるはずだ。
再びひっくり返し、また鍋を載せる。
ジュジュジュ、ブジューッ。
どろソースをかけた。フライパンの上で、イカの焼ける匂い、卵の焼ける匂い、ソースの匂いが一体になる。
イカ焼きの香りは、大阪の地下街の香りだ。
とりわけ、阪神電車の梅田駅周辺の。
皿に広げ、どろソースをかけて、供した。
「うわっ。イカ焼きや。デラバンや」
男は小躍りして、箸で適当に切って、口に運んだ。
「旨い! ほんまもんや。ちょっとソースが辛いけどな」
「どろですからね。もうちょっとほんまもんは甘いですよね」
「ここは横浜やからなあ。ちょっと辛いぐらいがええような気がするな」
男は嬉しそうに、ひたすらモグモグと口を動かした。
幸はその様子を見て、安心してまたグラスに口をつけた。
「気ぃつかわんでええんちゃいますか。別に。どこにおっても」
男は、最後の一切れを残し、ふう、と息をついて言った。
「そやけど、お互い、気ぃつこうてなんぼの仕事やんか」
「まあ、そうですねえ」
気遣いができてこそ、仕事というものは仕事になるのかもしれない。気遣いのないものが増えてしまったから、世の中は殺伐とするのかもしれない。気遣いって、それに対して対価が支払われるものでもない。でも、絶対にあったら嬉しいもの。
「岡田監督がな、おーん、って言うやん。あれも気ぃつことるんやで。相手が言うことに対して、自分が言うことに対して、頭の中で整理して、おーん、て言うてる間に言葉選んどるんや」
「おーん」
「それそれ」
二人は笑いあった。過ぎた気遣いのいらない、束の間の時間が流れている。
横浜の街は閑かだった。
「ヒトサラカオル食堂」だけが、たった二人で賑やかだった。
筆者 森 綾
フレグラボ編集長。雑誌、新聞、webと媒体を問わず、またインタビュー歴2200人以上、コラム、エッセイ、小説とジャンルを問わずに書く。
近刊は短編小説集『白トリュフとウォッカのスパゲッティ』(スター出版)。小説には映画『音楽人』の原作となった『音楽人1988』など。
エッセイは『一流の女が私だけに教えてくれたこと』(マガジンハウス)など多数。
http://moriaya.jp
https://www.facebook.com/aya.mori1
イラスト サイトウマサミツ
イラストレーター。雑誌、パッケージ、室内装飾画、ホスピタルアートなど、手描きでシンプルな線で描く絵は、街の至る所を彩っている。
手描き制作は愛知医大新病院、帝京医大溝の口病院の小児科フロアなど。
絵本に『はだしになっちゃえ』『くりくりくりひろい』(福音館書店)など多数。
書籍イラストレーションに『ラジオ深夜便〜珠玉のことば〜100のメッセージ』など。
https://www.instagram.com/masamitsusaitou/?hl=ja