幸は凛花の注文とらずに、カウンターのなかの小さなスツールに腰掛けた。
セルジュ先生の講義である。
「パリの若者たちは、カップルが二人で住むときに、一緒に絵を探しに行くそうだよ。二人がともに好きな絵を見つけて、その1枚に合う家を探す。家具を探す。まずは共感から始めるわけだ。
それはセンスの違いというところから始めるよりも、そのほうが素敵じゃないかな」
幸はなるほど、と感じ入った。それはなかなかいい話だと思った。と思いながら、凛花の表情を探ると、納得は半分くらいの顔色だった。
「それはいい話ですけど。でも、絵も飾りたくない、っていうかも」
そのとき、ふと、幸はクリスマスの夜のことを思い出した。
「共感、が大事なんでしょ。だったら、香りはどうかしら。ほら、クリスマスの時、凛花ちゃんがお手洗いに置いてくれたディフューザーの香りを、彼、気に入ってくれたじゃない。一緒に、好きな香りを探しに行ったらどうかしら」
凛花の顔がぱっと輝いた。
「そっか。香りなら、置き場所に困らないし! いいですね。行ってみます。ママ、ありがとう」
そういうや否や、また花が咲いたような笑顔になって、飛び出していってしまった。
「やれやれ。お客さんになってくれるのかと思ったのに」
幸が呟くと、セルジュは幸の代わりに大袈裟に肩をすくめるジェスチャーをし、あっはっはと笑った。
店はまた閑かになった。夕暮れはその色を深め、セルジュは空っぽのグラスに目を落とし、白ワインを、と言った。
新緑の季節には、うっすらとグリーンに輝く木漏れ陽のような白ワインが合う。
「グリューナフェルトリナーにしましょうか」
幸が言うと、セルジュはにっこり微笑んだ。
「いいね。オーストリアは、今頃真っ白なエルダーフラワーの季節だよ」
「へえ。見てみたいです。エルダーフラワーのシロップはありますけど」
「ああ、それ、喉にいいんだよ」
「そうなんですか」
幸はオーストリアワインの栓を抜いた。自分用には、エルダーフラワーのシロップをソーダで割った。
「乾杯」
そこへ、また浮かない顔の女性がやってきた。
「あら、恭仁子さん、こんばんは」
武蔵小杉から、また電車に乗ってきたのだろうか。それにしては、恭仁子は近所に買い物に行くようなデニムとくたびれたTシャツ、小さな生成りのトートバッグという姿だった。
「どうぞ好きなところへおかけになって。お荷物は隣の席へ。まだ誰も来ないですから」
恭仁子は幸の声が聞こえなかったように、膝の上のトートバッグを両手でもって、ぼんやりと、カウンターの一点を見つめていた。
幸は一呼吸置いて、もう一度言った。
「どうぞおかけになってください」
恭仁子はゆっくりと、カウンターの一番端に座った。なんだか亡霊になってしまったかのようだった。
「…白ワインください」
やっとのことでそう言った。