グリューナフェルトリナーがもう一杯、恭仁子のもとにやってきた。
幸はそのワインに合うだろうと、いただきものの蕗と厚切りベーコンを合わせた煮物を取り出した。
蕗は大きな葉っぱを落とし、茎の部分の筋を少しとって、酢水で灰汁抜きをする。それを少しの塩で茹でて、さらに炒めたベーコンと炒め、ほんのりと醤油と酒と味醂で味つけたものだ。
「今しか味わえない、野生の蕗をいただいたんです。よかったら、つまんでください」
セルジュは、いいね、と嬉しそうに箸を取った。
「うん。春の青い香りだ。なんだか短すぎる春だったけどねえ」
短すぎる、という言葉に反応するように、恭仁子の目からぽろぽろっと涙が溢れた。
幸は問いかけることはせず、セルジュに話しかけようとした。
すると、恭仁子から話し始めた。
「ごめんなさい。あの、岡部がね、… 脳に良くない腫瘍ができていて、手術するんです」
「おかべ?…」
「ああ、主人です。岡部良介っていうんです」
恭仁子は頷いた。
「なんでそんなことになるんだろうって。私が、佐伯くんのことを思ったりしたから、バチが当たったんじゃ…」
そう言うとまた、ハンカチを鼻に当てた。
なんて子どものように感情を出せるんだろうと、幸は恭仁子を羨ましく思った。そして、泣きながら佐伯洸の仕事部屋に近いこの店に来てしまう彼女のまた感情に任せた行動に、ほんの少しだけあきれた。でも、彼女はここに来るしかなかったんだろう。
努めて冷静に、幸は尋ねた。
「佐伯さんには連絡したんですか」
恭仁子はハンカチで顔を覆うようにして、大きく被りを振った。
「もう会えない。もう会えない。バチが当たった…」
泣きじゃくり始めた恭仁子に、幸は良介の手術が深刻なものであることを悟った。
そして、また冷静に言った。
「恭仁子さん、泣いてもいいけど、あのね、バチとかないからね」
それは幸の本心からの言葉だった。
「バチとかないの。恭仁子さんは悪いことはしていない。佐伯さんのこと好きだった気持ちは、気持ちのままだったんだから。気持ちは、止めたりできないんだから」
それに佐伯さんもあなたのことを大事に見守っているじゃない、と言いかけて、幸は口をつぐんだ。
そのことは自分が話すべきではないだろう。
激しく落ち着かない今年の気候のように。揺れている人たちの心の狭間にいるには、しっかりと立っていなくてはならない。自分の場所というところに。
奥の席では、セルジュが存在を消すかのように黙ってグラスを傾けていた。
幸は新しいグラスに、自分のためのワインを注いだ。
薄緑の液体に、若い日の3人の想いがまだ絡まって、ときどききらめいていた。
筆者 森 綾
フレグラボ編集長。雑誌、新聞、webと媒体を問わず、またインタビュー歴2200人以上、コラム、エッセイ、小説とジャンルを問わずに書く。
近刊は短編小説集『白トリュフとウォッカのスパゲッティ』(スター出版)。小説には映画『音楽人』の原作となった『音楽人1988』など。
エッセイは『一流の女が私だけに教えてくれたこと』(マガジンハウス)など多数。
http://moriaya.jp
https://www.facebook.com/aya.mori1
イラスト サイトウマサミツ
イラストレーター。雑誌、パッケージ、室内装飾画、ホスピタルアートなど、手描きでシンプルな線で描く絵は、街の至る所を彩っている。
手描き制作は愛知医大新病院、帝京医大溝の口病院の小児科フロアなど。
絵本に『はだしになっちゃえ』『くりくりくりひろい』(福音館書店)など多数。
書籍イラストレーションに『ラジオ深夜便〜珠玉のことば〜130のメッセージ』など。
https://www.instagram.com/masamitsusaitou/?hl=ja