《4》
AJは地下にあった。木の扉にはひし形の窓がついていて、何人かのミュージシャンが見えた。最初に見えたのは、大きなウッドベースだった。ピアノの顔は見えず、音だけがこぼれてきた。
一音一音、なめらかに連なる波のような音。
時に大波となって猛々しく落ち、またさざ波となって浜辺を撫でるような。
久しぶりに聴くそのピアノは、明らかに翔平のものだった。麻貴はその音を聴いているだけで、すーっと彼と一緒にいた日々の自分に戻っていった。
どうやらリハーサルのようだ。
ふと、音が止まったと思うと、飛び出てきたのは煙草の箱を手にした涼平だった。
「あ」
うん、と麻貴は頷いた。
「ちょっとコンビニ行くんだけど」
「一緒に行っていいかな」
「い、いいよ」
二人は連れ立って歩き始めた。麻貴は今聞くしかないと思った。しかしいきなり「あのときのあの彼女はなんだったの」などと聞くのもなんだかカッコ悪い。
すると、煙草を吸いながら、翔平が言った。
「なんで急にいなくなったの」
勇気を振り絞って麻貴は言った。
「だって… 彼女できたんじゃないの」
「なにそれ」
「二人で飲んでたでしょ。あの乃木坂のライブの後」
「あれは… ミュージシャン仲間だよ」
「え」
「なりたてのボーカリスト。でも最近すごい人気あってさ」
「… じゃ、彼女じゃないの」
「あったりまえだよ。そんな、確かめもしないでさ」
「じゃさ、なんで連絡くれなかったの、ずっと」
翔平は立ち止まった。二人ともコンビニに入れず立っていた。
「結婚、っていう踏ん切りがつかなくてさ。このままずるずるするのもよくないかな、とか」
「そう」
その気持ちは今も同じなの、と麻貴は心のなかで叫んだけれど、口に出さなかった。年上の自分が、何か詰め寄るようでイタイ、と思ったのだった。
このまま、お花を渡してやっぱり帰ろう、と思ったとき、翔平が言った。
「麻貴のこと、大事だった。いなくなって、もっとそう思った。いっつも花とか飾ってたじゃん。そういうのまったくなくなると、なんか違うなあって」
そう聞くと、麻貴はたまらなくなった。
「私も翔平と居たい」
手の中で水仙のブーケの根元がどんどん熱くなっていた。
「麻貴、それは?」
「あ、あったの、水仙」
「探してくれたんだ」
翔平はブーケに顔を寄せ、水仙の香りをかごうとして、松葉に目の上を刺された。
「あ、いてて」
そして笑いながらもう一度、その花の香りをかいだ。
「いい匂いだなあ。こんな小さい花なのに、いい匂いだなあ」
麻貴は笑いながら、香りをかいで輝いた翔平の目を見ていた。
結婚でなくてもいい。このまま、この瞬間が続けばいい、と思った。
To be continued…
★この物語はフィクションであり、実在する会社、事象、人物などとは一切関係がありません。
作者プロフィール
森 綾 Aya mori
https://moriaya.jimdo.com/
大阪府生まれ。神戸女学院大学卒業。
スポニチ大阪文化部記者、FM802編成部を経てライターに。
92年以来、音楽誌、女性誌、新聞、ウエブなど幅広く著述、著名人のべ2000人以上のインタビュー歴をもつ。
著書などはこちら。
挿絵プロフィール
オオノ・マユミ mayumi oono
https://o-ono.jp
1975年東京都生まれ、セツ・モードセミナー卒業。
出版社を経て、フリーランスのイラストレーターに。
主な仕事に『マルイチ』(森綾著 マガジンハウス)、『「そこそこ」でいきましょう』(岸本葉子著 中央公論新社)、『PIECE OF CAKE CARD』(かみの工作所)ほか
書籍を中心に活動中。