千壽さんが歌舞伎俳優の道へ進んだきっかけは、ちょうど中学を卒業する頃、大阪で松竹の歌舞伎学校ができたことでした。
「大阪で歌舞伎学校が開校するけど、興味ない?」
親類にそう言われた千壽さんは、こう考えました。
「普通に高校へ行って普通に勉強しても、きっと普通の人生やなあ。ここで冒険してみようかな、と思ったんです。向こうは若い人材が欲しかったのでしょう。8人の1期生のひとりになりました。歌舞伎好きが応募してくると考えられていたようですが、よく歌舞伎を見ていた生徒は一人しかいませんでした」
15歳の千壽さんは、きっと美少年だったに違いありません。そして歌舞伎の基本を乾いた砂が水を得るように吸収していったのでしょう。
「踊り、義太夫、謡、三味線といった専門的な芸の基本だけでなく、華道、茶道、和裁もありました。花嫁に行けるやん、っていうくらい(笑)。一つずつは面白くて、日々、自分の中に引き出しが増えていくようなわくわくしたものがありました。ところが朝から夕方までずっと正座というのだけは参りましたね。1コマ1時間半が2コマ目くらいからもう辛くて、浴衣ははだけてくるわ。当時記者さんがたくさん取材に来てくださいましたが、
『この子ら、大丈夫かな』と思われていたそうです」
片岡秀太郎さんの愛情のある教え方が、千壽さんの胸にありがたく残っています。
「セリフを現代語にして『こういう意味やで』と教えてくださったり、とにかく教えるのが誰よりもお上手でした。私は歌舞伎にどんどんのめり込んでいきました」
それから27年の時を経て。江戸でも上方でも。千壽さんは必要とされる役者になっています。
「どんな役でも、千壽がやってくれたらおさまる、と言われたいですね。必要とされることが嬉しいですし、ありがたいです」
お客様にも共演者にも、愛されてこその歌舞伎役者なのだと、千壽さんを見ていると感じます。
上方の言葉で柔らかく語りながらも、芯のところにはきゅっと強い役者魂が見え隠れする。今の歌舞伎になくてはならない存在として、まだまだ活躍されることでしょう。
取材・文 森 綾
フレグラボ編集長。雑誌、新聞、webと媒体を問わず、またインタビュー歴2200人以上、コラム、エッセイ、小説とジャンルを問わずに書く。
近刊は短編小説集『白トリュフとウォッカのスパゲッティ』(スター出版)。小説には映画『音楽人』の原作となった『音楽人1988』など。
エッセイは『一流の女が私だけに教えてくれたこと』(マガジンハウス)など多数。
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撮影 萩庭桂太
1966年東京都生まれ。
広告、雑誌のカバーを中心にポートレートを得意とする。
写真集に浜崎あゆみの『URA AYU』(ワニブックス)、北乃きい『Free』(講談社)など。
公式ホームページ
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