どこにどんな香りがするのか。匂いが存在するのか。ひとりひとり、感受性は違い、そこから思い出す記憶もさまざまです。
「ひとりひとりが宿している記憶が作品なんです。それに気づいてもらい、さらにその人たちのやる気スイッチのような”記憶スイッチ”を押してあげることが私の仕事。絵画や彫刻作品もそうですが、目で鑑賞した時の感動を残したいと思い、作品の絵葉書を買うことがあると思います。しかし、その時の体験は葉書には残りません。当然のことですが、人の感情や身体的状況は常に変化し、感動した経験は記憶に残る。『匂いの記憶』を作品化することは、匂いを感受した時の経験から月日を経て、似たような匂いや同じ素材の匂いを嗅いだ時に、記憶が蘇り、自分の中にその匂いの経験が宿ったと思うのです。匂いの記憶を思い出すことは、自分を見つめる時間につながっていきます」。
井上さんは美術館だけでなく、いろんな空間や人に「匂いと記憶」の作品を提供できると考えています。
「美術館の来場者だけをターゲットにしていたら、体験者数を伸ばすことは出来ません。多くの人に「匂いと記憶」の作品体験をしてもらうためには、アートを知らない人や美術業界以外の人へ向けたプログラム開発と実施が大切だと思いました」
ドイツのMuseum Villa Stuck in Munich (ヴィラ・シュトゥック美術館 in ミュンヘン)の井上さんのワークショップには、美術館らしくない風景が生まれていったようです。
「約3ヶ月間、22冊の古書を展示して、全ての本を手に取り、匂いを嗅いでもらう鑑賞方法を取りました。触れた時につく指紋も大切な作品として扱い、鑑賞者と本が織りなす形態変化を体験する機会にしました。生涯教育団体の高齢者がワークショップに何度も参加してくださり『未来の記憶をもらいにきた』と話してくださったり『残りの人生を楽しむ際に、古書の匂いから自分の過去を振り返る良い機会になった』などの意見ももらえました。また、古書の匂いから、自宅の倉庫に眠る古書の処分について相談する未来課題へと発展することもありました。この展覧会は『本に直接手で触れて、匂いを嗅ぎ、感じたことを会場にいる人たちと話し合う』ことを鑑賞ルールとしたため、通常の美術館とは異なるにぎやかな風景が生まれました」。
2010年にタブレット書籍が登場し、2012年にはドイツの老舗出版社シュタイデルが「本の紙の匂いを忘れてはいけない」と書籍の香水「PAPER PASSION」を作ったそうです。実際に井上さんがお持ちのものを嗅がせてもらうと、ヨーロッパの本屋さんにいるような、紙とインクの混じり合った匂いが。
「また2020年のコロナ禍に、米西部オレゴン州ポートランドにある人気書店”パウエルズ・シティー・オブ・ブック”が『書店のにおい』を楽しめる香水を販売しました」
日本人にはなかなかない発想です。
「そうなんです。日本では、2017年に「本屋の香り」というトイレ用芳香スプレーが発売されました。でもそうなる発想が、私にはイケテナイなあと感じます。ドイツでは、本を作る時、カラーチャートのように紙質を手触りと香りで選んだりするのです。読書は五感でする行為なんですよね」
井上さんが挑戦し続けているのは、香りや体験といった目に見えないものをアートにすることなのかもしれません。そしてそれは、受け取る人たちがまた大きく深く、自分の中でさらなるアートにしていくもの。受け取る人たちがより豊かな幸せを感じられるものなのです。
取材・文 森 綾
フレグラボ編集長。雑誌、新聞、webと媒体を問わず、またインタビュー歴2200人以上、コラム、エッセイ、小説とジャンルを問わずに書く。
近刊は短編小説集『白トリュフとウォッカのスパゲッティ』(スター出版)。小説には映画『音楽人』の原作となった『音楽人1988』など。
エッセイは『一流の女が私だけに教えてくれたこと』(マガジンハウス)など多数。
http://moriaya.jp
https://www.facebook.com/aya.mori1
撮影 萩庭桂太
1966年東京都生まれ。
広告、雑誌のカバーを中心にポートレートを得意とする。
写真集に浜崎あゆみの『URA AYU』(ワニブックス)、北乃きい『Free』(講談社)など。
公式ホームページ
https://keitahaginiwa.com