豪放磊落な名役者として伝説がたくさん残っている藤山寛美さん。八十吉さんが寛美さんを思い出すとき、お洒落だった寛美さんのこんな香りが漂います。
「競馬チックの匂いです。競馬チックは舶来の整髪料でね。これで鏡の前で髪を整えていらした姿を思い出しますね。リキッドをつけてから、このチックをつけて、櫛でビーッと七三に分けてらっしゃいました」
「競馬チック」は米国Caswell-Massey社の製品で、固形状の整髪料だったようです。
「それとね、私らがにんにく食べたら怒るんですけど、自分は兵隊で満州に行ったときに覚えた食べ方なのか、生でにんにくをかじられるんですよ。部屋中ににんにくの匂いがしているときがありました」
いたずら好きな寛美さんはこんなことも。
「にんにくの匂いで、舞台中、いろんな人のところへ近づいていってふーっと息を吐かれるんです(笑)」
演技中の役者さんたちは表情を変えてはならぬと頑張りました。「しょうがない人だなあ」と思いながらも、寛美さんを嫌いになることはなく、皆、慕っていたのです。
「寛美さんは60歳で亡くなってしまいました。早すぎましたね。もっと歳を重ねた寛美さんの芝居を見てみたかったです」。
八十吉さんは今、松竹新喜劇70周年記念公演の『人生双六』で、藤山寛美さんの孫に当たる藤山扇治郎さんと共演しています。また、扇治郎さんたち若い役者さんを指導する立場でもあります。
「『今回の芝居は、今までと同じ神経ではあかんで』と言いました。役の者になるから役者。目立とうという気持ちとか、自己主張は不要なのです。それは寛美さんもずっとおっしゃっていたことでした。『普通にやれ、笑わそうとするな』とね。私はそれを一番に大切にしてきました。若い人たちにはそういう気持ちが足りない気がします」
たとえば、八十吉さんが素晴らしいと思う現代の役者さんは、香川照之さん。
「香川さんはいつも役の人として存在するでしょう。その役になってしまったら、本当の香川さん自身はどんな人なのかまったくわからない。その空気のなかでセリフでなくてもう自然なリアクション、会話になっている。それが大事なのです。朝ドラなどはそれをとても学べると思います。若い役者さんたちにはぜひ毎朝見てほしいですね」
自身の演技にもますます磨きがかかる八十吉さん。これからひとつだけ、どうしてもやってみたい芝居があります。
「『おとなの童話』という芝居です。これをやれたら、いつ辞めてもいい。渋谷天外さんも、五木ひろしさんもやられた役です。70歳ではもう無理。体が思うように動く間に、これをやりたい。寛美さんがやられたときのように。ただその役になってね、何もせずにね」
ただただ役と静かに向き合ってきた人の、心の底にふつふつとたぎらせ続ける情熱を見たような気がしました。
八十吉さんに伝わった寛美さんの形見の芸を、一人でも多くの人に観ていただきたいものです。
取材・文 森 綾
フレグラボ編集長。雑誌、新聞、webと媒体を問わず、またインタビュー歴2200人以上、コラム、エッセイ、小説とジャンルを問わずに書く。
近刊は短編小説集『白トリュフとウォッカのスパゲッティ』(スター出版)。小説には映画『音楽人』の原作となった『音楽人1988』など。
エッセイは『一流の女が私だけに教えてくれたこと』(マガジンハウス)など多数。
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撮影 上平庸文
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