《4》
2016年の東京は、12月になっても寒暖の差が激しかった。
さつき会の同窓会は30人ぐらいの人が集まった。一番後ろに座った希子は、時々テーブルの同窓生たちが話しかけるのに答えるだけだった。
「ええ、それでは自己紹介と簡単な近況報告をお願いしたいと存じます」
司会をしているムネハラさんが淡々と言った。希子は自分の番になって、立ち上がった。
「あの、名簿に坂本希子と書いてありますが、2年前にまた旧姓の熊田に戻りました。クマダノリコです」
小さくざわめきが起こった。席の前のひな壇のようなところにいる、谷沢神父が「ああ」と、顔を向けた。もはやリーゼントではなかったが、オールバックにした銀髪の下に、あの人懐っこい細い目が笑っていた。
エピソードの多かった神父は人気者で、彼を取り巻く同窓生たちの後ろで、結局希子は挨拶もできずにいた。最後の記念写真撮影が終わり、テーブルの周りの人たちと少し話して、一人、外へ出た。
結婚して上京して、10年近くになる。銀座の街はクリスマスの飾りものがあちらこちらで輝いている。なんとなく寂しい気持ちで、希子は歩いた。楽器屋の前の大きなツリーや、デパートの前の白いトナカイ。ぐるりとめぼしいものを見て、再び新橋の方向へと歩き、駅に近づいたとき、後ろから声がした。
「クマダノリコさん」
振り向くと、谷沢神父が立っていた。
「あ。憶えていてくださったんですね」
「ええ。あのときはありがとうございました」
二人は並んで歩き始めた。希子はそれだけで心が温まった。「駅がもっと遠ければいいのに」とふと思った。
谷沢神父は、希子に何も質問しなかった。
希子は、旧姓に戻ったことを何か言うべきかと思った。でもこんな短い幸せな時間に、不妊治療がうまくいかなかったことや、それが夜遅くまでデザインの仕事している自分のせいかもしれなかったことや、いやそうじゃないかもしれないことなんて、とても語りつくせないと諦めた。
「神父様は東京にいらっしゃることはよくあるのですか」
「今はあまりありません。数年前まで横浜の教会にいましたが」
「そうでしたか」
希子はだんだん、まるで16歳の自分になったような気持ちがしてきた。そうだ私、この人のことが大好きだったのかもしれない、と思うと、街の景色が潤んで見えた。
新橋の駅まではすぐだった。
「ではここで。… そうだクマダノリコさん、ここに…」
谷沢神父は自分の胸のあたりに手を当てた。
「愛は奪うものでも与えるものでもない。ここにあるものです…あの歌は、そんなことを言っていましたね」
「『名もなき詩』ですね。あのとき、みんなで…」
希子はあわててバッグからハンカチを取り出そうとして、はっと気づいた。そういえば、今日、谷沢神父に会ったら渡そうとしたものが入っていた。
「あのこれ、お渡しするのを忘れるところでした」
昨夜焼いた、ジンジャークッキーだった。
「どうもありがとう。クマダノリコさん」
ものすごくたくさんの人が行き交うなかを、谷沢神父の背中が消えていった。
希子は、さっき来た道を歩きながら「あの人のことを好きでよかった」と、思った。
終
作者プロフィール
森 綾 Aya mori
https://moriaya.jimdo.com/
大阪府生まれ。神戸女学院大学卒業。
スポニチ大阪文化部記者、FM802編成部を経てライターに。
92年以来、音楽誌、女性誌、新聞、ウエブなど幅広く著述、著名人のべ2000人以上のインタビュー歴をもつ。
著書などはこちら。
挿絵プロフィール
オオノ・マユミ mayumi oono
https://o-ono.jp
1975年東京都生まれ、セツ・モードセミナー卒業。
出版社を経て、フリーランスのイラストレーターに。
主な仕事に『マルイチ』(森綾著 マガジンハウス)、『「そこそこ」でいきましょう』(岸本葉子著 中央公論新社)、『PIECE OF CAKE CARD』(かみの工作所)ほか
書籍を中心に活動中。