このインタビューの日は、あと2週間ほどで大きなコンサートが二つ控えていました。
炭水化物とタンパク質の摂り方など、食事制限も厳しくしつつ、筋肉の状態をその日に向けて作り上げていく。無駄に筋肉をつけすぎてもいけないし、持久力は半端なく必要。そういう特別な身体を作るそのストイックさは、とても常人には不可能そうです。
「太鼓を打つ体、になってしまっているんでしょうね」
さらりとそうおっしゃいましたが、体調管理は本当に人の何十倍も大変そうです。
「休みの日は何をしていますか、と聞かれたりしますが、何もしていないです。それができたから、ここまでやってこられたのかな。お風呂でリラックスする時間が大事なので、入浴剤で香りを楽しんでいます。松の香りを使うことが多いです」
香りについて気にするようになったのは、あるアフリカ人の打楽器奏者と共演した時から。
「ずっと香りに関心はなかったのですが、ある時仕事をしている同年代の人から、ふっと加齢臭を感じたことがあって。僕もね、汗をかく仕事なので、他人からは臭っているのかな、とふと思いました。そういえばあるとき、アフリカ人の打楽器奏者と共演したんですね。演奏が終わって、彼はすぐシャワーを浴びて、ほのかな香をまとって現れました。彼は当時ヨーロッパに住んで居たので、フランスあたりで身につけた習慣かもしれませんね。ああ、香りって、自分より他の誰かに対してのものなんだな、と。それからちょっと気にするようになりました」
ただ、目の前にいらっしゃる林さんには人が作った香りは似合わないように思いました。その存在自体が風のなかに颯爽と立っている木のような芳しさを放っているのです。
3月17日。東京・サントリーホールで、林英哲さんは「独奏の宴ー 絶世の未来へ」と掲げた演奏活動50周年コンサートを開催されました。 コロナの自粛期間中で、座席数には配慮がなされていたものの、限られた席は埋め尽くされ、たくさんの人がステージの上のたった1人の林さんを待ち受けていました。
まずは影アナでご本人が挨拶。
「…大海原を彷徨った様な50年でした。なんとか今日まで漕ぎ続けてこれました。今日は原点に立ち帰り、一人きりで演奏します。今の私がこのサントリーホールで1人で演奏するなどということは、まるで高齢者がヨットで大航海する様な無謀な試みですが、この企ての立会人として、どうかお付き合いください。絶世の未来が来るよう、太鼓を打ち、祈り続けたいと思います」
どこからともなく響く太鼓の音。そしてたった1人の林英哲さんが小さな灯火とともに登場します。どん、どん、と床を打ち鳴らせば、床までが鼓面になったかのよう。
第1部はさまざまな種類の日本の太鼓や打楽器を打つ曲が続きます。林さんは一つずつの楽器の持っている音の個性を揺り起し、歌わせていくように打っていきます。
マラカスのように中に粒の入ったマレットで打ったり、吊した、非常に金属音に近い音の出る平たい石をマリンバの様に打ったり、それはこれまで、林さんがさまざまな人とコラボレーションし、さまざまな国のさまざまな音楽と出会ってきたなかで、削ぎ落とされて残ったものなのかもしれないと、想像させてくれます。
正確なリズム、残響まで計算された音色。段々と、彼がこの舞台に1人でいるのだということを忘れていきました。
第2部では、いよいよ大太鼓が登場。1台の太鼓と1人の奏者。
一気に神聖な、凪いだ空気が漂います。
まず、手のひらで打面を叩き、太鼓との対話をするように曲が始まっていきます。
桴が現れ、両の手に握られると、あの「心音の繰り返しのような」止めどない音が始まります。
打面の全ての場所を、ピアニッシモからフォルティッシモまで虹の様に音に変えていく。これは本当に一つの太鼓から聴こえてくる音なのだろうかと思えるほど、その音は大きなホールを埋め尽くしていきました。
一つの太鼓、1人の奏者だからこそ、客席の集中力もそこにだけ注がれます。それはオーケストラを聴くのとはまた違う空気を作るのでした。
太鼓の神聖さを信じて50年打ち続けてきた人の、素直に太鼓と向き合う姿の美しさ。
林英哲さんは、もはや太鼓奏者というだけでなく、日本の文化を代表するアーティストとして、唯一無二の存在です。
ステージ撮影 小熊栄
取材・文 森 綾
フレグラボ編集長。雑誌、新聞、webと媒体を問わず、またインタビュー歴2200人以上、コラム、エッセイ、小説とジャンルを問わずに書く。
近刊は短編小説集『白トリュフとウォッカのスパゲッティ』(スター出版)。小説には映画『音楽人』の原作となった『音楽人1988』など。
エッセイは『一流の女が私だけに教えてくれたこと』(マガジンハウス)など多数。
http://moriaya.jp
https://www.facebook.com/aya.mori1
撮影 初沢亜利(はつざわ・あり)
1973年フランス・パリ生まれ。上智大学文学部社会学科卒。第13期写真ワークショップ・コルプス修了。イイノ広尾スタジオを経て写真家として活動を始める。
東川賞新人作家賞受賞、日本写真協会新人賞受賞、さがみはら賞新人奨励賞受賞。写真集に『Baghdad2003』(碧天舎)、『隣人。38度線の北』『隣人、それから。38度線の北』(徳間書店)、『True Feelings』(三栄書房)、『沖縄のことを教えてください』(赤々舎)。
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