幸はさりげなく聞いた。
「お近くなんですか」
黒タートルの男は「ええ、まあ」と言い、一呼吸おいて喋り始めた。
「坂の上に借りてる家があって、そこで仕事しているんです。都内には事務所というか家というか、あるんですけど」
メガネの男が小指を立てた。
「そこにね、いるんです。これが」
「ああ」
なるほど、と幸は微笑んで、やっぱりいい男はひとりじゃないな、と思った。
しかし、なんとなくまた会いたいなと思った。何か、舌に合うものがあれば、また来てくれるかもしれない。
「あの、御三方は、お腹いっぱいですか」
「お腹はまあまあいっぱいだけど、美味しいものは別腹」
女性が言い、左右の男たちも頷いた。
「少しだけ、あったかいもの、召し上がってください」
幸はスープ皿をお湯で温め、参鶏湯の汁だけを注ぎ、そこに、鍋の中からお茶パックに入れて茹でた餅米を一かたまりずつ置き、裂いた鶏肉を少しと、白髪ねぎを載せた。
「なにこれ。ひとつずつ! こんなに綺麗な参鶏湯、見たことがないわ」
幸は微笑んだ。
「冷めないうちに召し上がってください。私の師匠に教えてもらった参鶏湯なんです」
3人は、それぞれにスープをすすった。シェアではなく、ひとり、ひと皿。生姜と棗の仄かな香りが鼻腔を満たし、鶏だしの柔らかな旨味が口中に広がって溶けた。
「ああ、やさしい味ですね」
黒タートルの男が言った。
幸が「また来てください」と言う前に、女性が言った。
「これ食べにまた来ちゃおう」
幸は静かに聞いた。
「奥様たちもお近くなんですね」
夫の方が言った。
「いや、うちは武蔵小杉ですよ」
「そうですか。でも一本ですね」
「…」
メガネの男は黙ってまたスープを飲み、妻の横顔をちょっと心配げに見た。
幸は気づいた。元カノ。元カレ。彼女が頻繁に彼のところへ来たら、それはちょっと問題かもしれない。
そして慌てて言った。
「また、3人でいらしてくださいね」
「また来ますよ」
答えたのは、黒タートルの男だった。
その時、外でドーンという音がした。
「花火ですね」
幸は外に目をやって言った。
女性はスプーンを置いて、キョロキョロした。
「花火が上がるんですか」
「冬の土曜日にね、時々。ここからはあんまり見えないけれど」
「残念。やっぱりまた来なきゃ」
女性はまたスープを飲みながら言った。
えくぼができた。
冬の花火は、4人それぞれの心をちょっとざわつかせていた。
筆者 森 綾
フレグラボ編集長。雑誌、新聞、webと媒体を問わず、またインタビュー歴2200人以上、コラム、エッセイ、小説とジャンルを問わずに書く。
近刊は短編小説集『白トリュフとウォッカのスパゲッティ』(スター出版)。小説には映画『音楽人』の原作となった『音楽人1988』など。
エッセイは『一流の女が私だけに教えてくれたこと』(マガジンハウス)など多数。
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イラスト サイトウマサミツ
イラストレーター。雑誌、パッケージ、室内装飾画、ホスピタルアートなど、手描きでシンプルな線で描く絵は、街の至る所を彩っている。
手描き制作は愛知医大新病院、帝京医大溝の口病院の小児科フロアなど。
絵本に『はだしになっちゃえ』『くりくりくりひろい』(福音館書店)など多数。
書籍イラストレーションに『ラジオ深夜便〜珠玉のことば〜130のメッセージ』など。
https://www.instagram.com/masamitsusaitou/?hl=ja