階下には、多くの人がすでに集まり、アペリティフを楽しんでいた。
グルメな大城が都内のイタリアンレストランにケータリングを頼み、すでに色とりどりのフィンガーフードが並んでいた。
大きな生ハムを削り、メロンやキウィと合わせるシェフもいる。
シャンパングラスが並び、頼まれてサーブするソムリエも、少し顎を上げてスラリと立つ。
式には出なかったが、このパーティーから参加する人たちも続々やってきた。
30代も半ばの新婦の友人たちはブラックドレスも多いが、年齢もまだ若いせいか、それなりに華やかだった。
新郎の友人たちは20代後半なのでまだ学生のような人もいる。着慣れない感じの白ネクタイの礼服姿が微笑ましかった。平服で、というアナウンスだったようで、驚くほどラフなポロシャツのような人もやってきた。
チリンチリン、とグラスが鳴らされ、音楽が流れ始めた。
なんと、結婚行進曲から佐伯洸が弾いているではないか。
「一曲だけのはずじゃなかったの」
驚いた幸は思わず声を出してしまった。よく見ると、ピアノを弾いているのは、なんと、佐伯洸事務所のマネージャーの沢だった。今日はスーツ姿ではなく、光沢のあるグレーのドレス姿だった。
洸はペールブルーのスーツの下に白いシャツという出立ちだった。いつもは黒の彼が、そんな装いをしているのも新鮮だった。
新郎新婦が席につくと、音楽は止み、皆、もう一度拍手した。ピーピーという指笛も聞こえた。
「皆さん、今日は、大城くんと凛花ちゃんのためにお集まりくださり、ありがとうございます。
私は、立会人で、大城くんの元上司の倉木です。今日は、司会も、挨拶も入れないということで、始まりの乾杯だけを仰せつかりました。新郎新婦の意向で、今日のこの良き空間と素晴らしい食事を、存分に楽しんでいただきたいとのことです…」
「セルジュさんって、倉木って言うんだ」
幸は呆気にとられ、またひとりごちてしまった。セルジュさんはセルジュさんで、今まで苗字も名前も知らなかったのである。
セルジュ倉木は今日はアル・カポネのような縦縞の麻のイタリアン・スーツだった。そして、パナマのボルサリーノを粋に傾けていた。
「では、新郎新婦と、ここに集まった皆様の末永いお幸せを祈って。乾杯!」
乾杯の発声と共に、佐伯洸はエルガーの『愛の挨拶』を弾いた。人々は、互いに顔を合わせ、乾杯を交わした。知っている人も、今日、たまたまそばにいた人も、微笑んで。
ここにいる誰もが手放しに、ただただ祝っていた。その気持ちをよりふくよかにさせるのが、洸の奏でるチェロだった。
建物の外で、佇んでその音色を聴いていた女性がいた。
たまたま、ヒトサラカオル食堂を訪れ「本日結婚式のため休業」という張り紙を見て、とぼとぼと坂道を登ってきた、岡部恭仁子だった。
夫が入院中の恭仁子は、寂しさと手持ち無沙汰で、せめて幸のご飯を食べたいとやってきたのだった。
坂道は途中から急になり、山手のお屋敷の通りにやっと上がると、汗が吹き出た。
この辺りに、佐伯洸のスタジオがあるはずだ。恭仁子はそう思いながら、それでも表札など見ず、ひたすら歩いた。
これ以上、洸に関わってはいけないと決めていた。
左へ行って、駅の方へ戻ろう。だいたい、なんでここへ来てしまったのかしら。
「幸さんに会いたいだけ」
自分にそう言い聞かせた。彼女は自分が洸への思慕を持ち続けていることを、責めなかったから。「あなたは悪くない」とはっきり言ってくれたから。誰かがそう言ってくれないと、自分を責め続けるしかなかったから。
重たい胸を抱きながら歩いていくと、ベーリックホールの前から、チェロとピアノの奏でる『結婚行進曲』が流れてきた。
恭仁子には暫くぶりに聴くそのチェロの生音が、洸のものだとすぐにわかった。
弾かれたように建物に近寄り、庭園に入った。
しかし、自分はそのパーティーに招かれた訳ではない。だからそこに佇んで、聴くしかなかった。
なんて懐かしい、なめらかなびろうどの布のような音だろう。
音色は黒じゃない。深い藍色。群青色。ロイヤルブルーのような色。
学生時代、芝生で練習していた、洸と良介の姿が胸に浮かんだ。こんな日差しの厳しい日も、額に汗しながら弾いていた二人の、真摯な横顔。それを見つめていた、ロングヘアーだった若い自分。
一生懸命なふたりのその姿を、愛していた自分。
それを映画の一場面ように思い浮かべたが、そこに流れる音は今、一台のチェロでしかない。
それが急にじわじわと悲しくなった。
窓から覗き込むのも変な人だと自分に言い聞かせ、彼女はただただ、立ち尽くして、聴いていた。
空は海のように青かった。若かろうが、歳を重ねていようが、すべてのカップルにとって、いつもサムシングブルーであるはずの、空だった。
筆者 森 綾
フレグラボ編集長。雑誌、新聞、webと媒体を問わず、またインタビュー歴2200人以上、コラム、エッセイ、小説とジャンルを問わずに書く。
近刊は短編小説集『白トリュフとウォッカのスパゲッティ』(スター出版)。小説には映画『音楽人』の原作となった『音楽人1988』など。
エッセイは『一流の女が私だけに教えてくれたこと』(マガジンハウス)など多数。
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イラスト サイトウマサミツ
イラストレーター。雑誌、パッケージ、室内装飾画、ホスピタルアートなど、手描きでシンプルな線で描く絵は、街の至る所を彩っている。
手描き制作は愛知医大新病院、帝京医大溝の口病院の小児科フロアなど。
絵本に『はだしになっちゃえ』『くりくりくりひろい』(福音館書店)など多数。
書籍イラストレーションに『ラジオ深夜便〜珠玉のことば〜130のメッセージ』など。
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