「ほら、岡部は調香師をしていたでしょう。洸もけっこう香りフェチで、私たちは若い頃から3人で、よく香りの話をしたの。私はあまり覚える気がなかったんだけれど、二人は何がどんな香りがするかって、よく話していたわ。まだ男性が香水をつけるのは珍しい時代だったけれど、二人ともそれぞれ、お気に入りがあった」
幸は思わず尋ねた。
「洸さんは、その頃はどんな香りをつけていたの」
「秘密」
恭仁子は咄嗟にそう言ったが、いたずらっぽく笑って答えた。
「洸は出会った頃は普通にオレンジの香りがしていた。たぶん、4711とかだったんじゃないかな。それがね、西海岸にホーム・ステイして、ラルフ・ローレンの香水を買って来たのね。なんていう名前だったか忘れたけれど、なんだかアメリカなわけよ。ちょっと花の匂いまでするようなんだけど、似合うのよ。なんだか急にこの人だけが大人になったような気がした。良介は彼が現れるたびに悔しそうな顔で、くんくん匂ってた」
その話を、幸はうっとりと聴いた。まるで映画のように彼らの青春がそこに見えた気がした。
「香りと一緒にその頃を思い出せるなんて、幸せなことですね」
ふとそう言うと、恭仁子は伏せ目がちに微笑んだ。
「幸せで、… せつないわね」
「それは上等な幸せですよ」
幸は心からそう思った。歳を重ねて、まだ「せつない」が蘇る。なんて素敵なことだろう。
表はしんしんと冷えて来ているようだったが、小さな店の中は二人の心のなかから暖かかった。
扉を開けて、次の客も、その次の客もやって来た。
「いらっしゃいませ」
予期せぬ相棒が現れて、楽しいことが起こりそうだ。
筆者 森 綾
フレグラボ編集長。雑誌、新聞、webと媒体を問わず、またインタビュー歴2200人以上、コラム、エッセイ、小説とジャンルを問わずに書く。
近刊は短編小説集『白トリュフとウォッカのスパゲッティ』(スター出版)。小説には映画『音楽人』の原作となった『音楽人1988』など。
エッセイは『一流の女が私だけに教えてくれたこと』(マガジンハウス)など多数。
http://moriaya.jp
https://www.facebook.com/aya.mori1
イラスト サイトウ マサミツ
イラストレーター。現在『婦人之友』表紙と目次。
J-WAVEラジオ番組『TALK TO NEIGHBORS』2つのイメージイラストを手がける。
*絵本:『はだしになっちゃえ』『ぐるぐるぐるーん』他(福音館書店)『Into the Snow』他(Enchanted Lion Books)など多数。
*ホスピタルアート: 愛知医大新病院 他、現地で手描き制作。その他壁画、ウィンドウアート、ライブドローイングなど幅広く活動。個展多数。
☆2025.1.17〜31 銀座 伊東屋 K.Itoya B1F にて個展を開きます。
Instagram:masamitsusaitou